だいたい、頭ごなしに勉強やれ勉強やれと強制したところで、好きでもない事を無理やりやらされても、期待通りに伸びるわけがないし、自主的に勉強するより効率がいいとは思えない(無論、自主的な勉強が必ずしも効率がいいとは断言できないが)。より伸ばすなら、好きになったり興味を持ったりするのが一番いい。そのほうが長続きするし。あの情熱の裏に隠された驚異的な記憶力と集中力。あの無限の可能性は無視できませんよ。物事を知ったり理解すること、何かにチャレンジしてそれを解決できた時に、それらが楽しいと思えるかどうかがポイントでしょうな。以前日記にも書いたけど、あるテレビ番組でのラサール石井の発言と周囲の反応が、勉強する人としない人の、勉強に対する考え方の違いが見え隠れしていた。似たようなことは他にもある。
例えば、「(学校の)勉強は社会に出て役に立つか」という議論がありますな。
こういう議論を見るたびに、そもそもの議題として「役に立つか」という受け身な視点はどうなのだろうと思ったりするんですけどね。「どう役立たせるか」と考えるほうがいいのではないかと思いますが、まぁ、それはそれとして、役に立つかという視点で書いてみましょうか。
この手の議論をすると、出るであろう意見は「暗記した年表は役に立たない」とか「覚えた公式は役に立たない」かな? この手の「勉強の結果得た“知識”」はそれを生業とする人以外で使うシーンは滅多にない。これらを引き合いに出して役に立つか立たないかという観点で議論したら役に立たないことがほとんどである、という結論で終わってしまう。そういう考え方しかできない人は、はじめから「勉強は社会に出ると役に立たない」と主張したいがために苦し紛れに言っているだけか、さもなくば「役に立った」ことを実感したことがない人だと思う。
無の状態から無の手法を使って何かを生み出すことはできない。なんらかの手法を使っている。それを人に教わるか、あるいは自ら生み出すかの違いだ。そして同じようなことをする場合は、その経験を生かす。勉強において得られた、社会に出て役に立つことというのはこの経験であると私は考えています。物事の考え方であるとか、何かをする時の取り組み方であるとか、解決のためのプロシージャであるとか、勉強の過程で身につけたいろいろな事が、仕事の上でも生かされている。もちろんそれらがそのまま生かされているとは限らないけどそれらが土台となって、新たな経験とともに生かされていく。そういうことを身をもって感じています。
もちろんそういったことは別に勉強からしか得られないわけではありません。勉強以外のことからしか得られないことも多いです。先人たちが、ある特定の事柄だけではなく、広い視野をもって様々なことを見聞き、経験しなさいというのは、そういった意味が込められているのでしょう。
社会で要求されるのは、考える力だったり解決する力だったり。知識はすごいんだけどねぇ……、という人はだんだんと置いて行かれます。テストの点数なんてのは、所詮、社会におけるスタートラインに立つための道具でしかないですからね。